初めて日本の南の霧島にお茶の種が到来したのは1320年頃でした。持って来たのは692年に設立された奈良の「般若寺(はんにゃじ)」のお坊さんでした。
それ以来、お茶栽培は20世紀半ばに世界中で使われるようになったような農薬や肥料なしで行われていました。こういう意味で、数百年前の初めての茶 畑の時代から20世紀半ばまで全ての茶園は自然と環境との調和の中で栽培されていました。この視点から見て、この歴史的なお茶栽培法のみが「お茶栽培の伝 統的な方法」と呼ばれます。
1320年頃に奈良のお寺から霧島に持たされたお茶の種は、霧島で14世紀に設立された初期の茶園の基礎でした。700年前まで遡る、現在の霧島の伝統的なお茶栽培と製造のルーツです。霧島に初めての茶の木の種が到来してから580年後、林家の霧島茶園が設立されました。
修太郎の曽々祖父林嘉助が1897年に茶園を設立してから百二十年以上になり、霧島茶園は5代の歴史を誇ります。 この歴史の始めに林嘉助は自ら静岡県からお茶の種を持って帰りました。霧島茶園を設立する前、嘉助はタバコを栽培し製造していました。タバコを販売しに東 京に向かった途中に静岡県で茶畑を見ました。林嘉助はお茶に没頭し、とうとう静岡県からお茶の種を日本の南にある霧島に持ち込むことを決めたのです。
すなわち、林嘉助が霧島茶園の設立に用いたのは、1320年に霧島に到来した種ではなく、静岡県の種でした。この為、今も数本、霧島の有機茶園で見 られる非常に古い茶の木は、霧島の他の古い茶の木とはかなり違います。現在も林修太郎の茶園で栽培される昔の古い茶の木(在来)はとても珍しい、他ではな い木だと言えます。
林嘉助が霧島茶園を設立した当時、霧島では手揉み製茶の技術者はまだ少なく、摘んだばかりの新鮮な茶葉を製造するためには、静岡県から技術者を招致 するしかなかったのです。しかし、静岡県は、日本の南に位置している霧島から約1000キロも北に離れているため、プロの手揉み技術者に霧島まで来てもら うのは非常に長い旅でした。こうして、林嘉助が霧島地域に手揉み製茶の技術を普及したわけです。一代目の林嘉助の時代に、霧島茶園は二ヘクタールで恐らく 当時は日本最大の茶園の一つでした。
今から見ますと、二ヘクタールはとても小さな茶園です。今日、二ヘクタールでは、茶園を運営し、お茶を製造している家族が生計を立てることは出来ま せん。現在、家族が運営する茶園の通常の面積は4~8ヘクタールです。今日の一般的な茶園では収穫も茶葉の加工・製造も機械でできます。他方、霧島茶園の 初代の時代は全て手仕事でした。1900年頃は、全てのお茶は手摘みはもちろん、手揉みでもありましたので、林嘉助の運営した茶園より大きい茶園の管理は 不可能でした。
霧島茶園の創立後、林家二代目の林悌治は、茶園を一歩一歩拡大させることに力を入れました。林嘉助が創立した時茶 園は約二ヘクタールでしたが、二代目は約三ヘクタールに広げました。50人が茶園と製茶工場で働いても、二ヘクタール以上の茶園の製茶業は普通は不可能で した。二十世紀初頭に霧島茶園と製茶業を拡大させるのは大仕事でした。
茶園と製茶で非常に多くの人手が必要なことの大変さを見て、林家の二代目の林悌治はいろいろ考えて、霧島茶園のお茶畑のすぐ近くに小さな木造りの製茶工場を建てました。この小さな製茶工場のおかげで摘んだばかりの新鮮な茶葉を揉み機械で揉むことが出来ました。
霧島製茶の三代目、林治男、は日本の摘採機のプロトタイプを発明しました。このプロトタイプの発明は20世紀に発展した日本茶にとって重要な要素だ と考えられます。このタイプの茶摘み機は、少し調整した形で今も使われています。原理としては、タイヤ付きの大きなハサミです。この機械のおかげで茶園の 新鮮な茶葉を50人の手摘み作業人がいなくても収穫するのが可能になりました。100人、150人の労働者がいなくても、霧島茶園を六ヘクタールに拡大す ることもできました。
また、霧島茶園の三代目は、林家で唯一お茶の栽培に農薬や化学肥料を使用することを決めた人です。次の代がまた農薬や化学肥料の使用をやめました。 二十世紀半ば、日本の産業は著しく発展しました。それと共にお茶栽培と製茶業も産業化が進み、世界の殆どの地域と同様、日本でも農薬や化学肥料が流行り、 人、動物、自然環境への悪影響はあまり知られていませんでした。
ちょうどその時、林治男の若き長男林修は家族の茶園で農薬が使われているのを見ていました。まだ若くて、父親に農薬や化学肥料をやめるのを説得する 立場ではなかったのですが、大きな不安を感じていました。ますます自然のバランスについて考えるようになり、農薬が茶畑で作業している人に及ぼす悪影響を 見て、違う考え方にたどり着きました。お茶は二十世紀初頭にまだ一般的だった、伝統的な方法で作るべきだと。林修が林家の家長にり、霧島茶園を伝統的な茶 園に変えるように全力を尽くし数百年間の間一般的だったようにお茶を農薬なしで栽培することにしたのです。
しかし、その時点で茶園では自然の調和がもう取れていませんでした。茶園を有機茶園に切り替えるために、もちろんまず農薬や化学肥料の使用を止めま した。だが、それだけではありませんでした。当時は自然栽培の肥料を作る知識もなくなっていました。地域の他の全ての茶園は農薬や化学肥料を使っていて、 誰も林修の有機肥料づくりを手伝えなかったのです。本当に美味しいお茶をつくるためには、どんな肥料でも良いという訳ではなく、茶の木と茶葉に良い影響を 与える有機肥料の作り方を自ら探さなければなりませんでした。
今は霧島茶園の五代目、林修太郎が最適な有機肥料をつくることに日頃力を入れています。茶木に適正な栄養を与え、 美味しい茶葉を育てられるようにします。林修太郎が鹿児島で茶業を勉強したとき、有機茶栽培についての授業はなかったので、修太郎は父親林修の知恵、茶業 講座の知識、それから知り合いの有機茶園からのアイデアを組み合わせ、お茶の木にとって最良な有機肥料を作り続けています。
近年海外でも注目されるようになった林修太郎のお茶には、厳選したお茶の品種も、最良な有機肥料も極めて重要です。茶の木が有機肥料を自然に吸収するには時間がかかりますので、春に美味しいお茶を作るために、冬も含め年中茶園の作業に取り組んでいます。